1: 名無しさん@おーぷん 2015/11/07(土)13:24:54 ID:jO6
●スレのごあいさつ

中学3年間、歴史の勉強をして、高校では1年だけ日本史を勉強した50代のおっさん。
日本史は受験科目でもなかったので、遠い昔に一通りやっただけ。

そんなおっさんが最近衝撃を受けました。

「鎌倉幕府っていつ出来た?」
「もちろんいいくにつくろう鎌倉幕府だから1192年、、、」
「ブー!残念でした。今では1185年なんだね。おっさん遅れてるわ」

ガーン。衝撃を受けてパラパラと日本史の本をちら見したら、そのほかにも
人類起源が400万年前、最近では700万年?前。
(おっさんが学生の頃は100万年前と習ってたのに、、、)

あと誰もが知ってるはずの「大化の改新」のあのドタバタ劇は今では
ただの「乙巳の変」に格下げ。
そういえば「任那の日本府」は存在しない事になっちゃってるようだし。。。
そもそも日本書紀がデタラメ満載の所に格下げ扱いw

などなど、おっさんの頭のなかの日本史は、どうやら全面改訂が必要な予感。

ということで、おっさんは一念発起。日本史を勉強し直すことにしました。
といっても、この歳なんで、今更受験とかは関係ない。
なので、暗記のための暗記はやらないで、歴史の本質に少しでも近づけるような
勉強をしようと考えて、このスレを立ち上げた次第です。

2: 名無しさん@おーぷん 2015/11/07(土)13:31:32 ID:jO6
●このスレの使い方

おっさんが「先生」になって、日本史の「授業」をする構成にします。

といっても、このおっさん、日本史については知識への飢餓感はあっても
知識そのものは中学生並み。。。。

じゃあなぜ、おっさんが「先生」になるのか。
それは伝える側が一番受け止める物が多いという学習の法則があるからです。
要するにおっさんが学ぶための動機を維持するための道具としてこのスレを拝借する
というスタンスです。

いわゆるなんちゃって先生、偽物の先生です。

たとえていうなら、大学のゼミの発表者みたいなもの。
ゼミの発表というのは発表者が「先生」になって講義をしますが
「生徒」側について話を聞いているのは本物の教授の面々。

このスレでもそんなイメージです。

ようするに、おっさんが無理して背伸びして学習の成果をこの場で発表する。
それを生暖かい目で、おっさんよりはるかに水準の高い読者がニヤニヤしながら
それを読み取る、というようなスタンスです。

そういう次第なので、高度なことや複雑なことはおっさんは一切iわからないですが
あらかじめご了承下さい。


3: 名無しさん@おーぷん 2015/11/07(土)13:37:43 ID:jO6
●具体的な進め方

最初は、日本史の入門書をおっさんが手に取り、その中で重要と思えるところを
抽出してこのスレに書き込みます。

そうやって旧石器時代から現代まで一巡したら、本のグレードをあげてまた時代順に
抽出していく。こういう構造です。成長の予定が螺旋階段を登るような感じです。



●今回の参考書

今回は「30分で流れがわかる図解日本史」という本です。
この本の、時代ごとの要点が書かれているページを使います。
それらのページ、全部で、たったの8ページw

これをさらにダイジェストしたり、関連で知ってることを書いたりします。
一巡目は、これで行こうと考えています。

二巡目は未定ですが、この本の本文の方を使うことになるかもしれません。

いずれ、少しずつ水準をあげながら通史を繰り返し繰り返し、少しずつ高度化していこうと
考えていjます。

4: 名無しさん@おーぷん 2015/11/07(土)13:49:29 ID:jO6
ということでさっそくはじめます。

●縄文時代

おっさん、この時代のポイントは「弓矢」だと思うんですね。

縄文時代の前の時代はマンモス象のような大型の獲物を狙ってたんだけど、
縄文時代になると暖かくなって、イノシシのような小さい獲物が多く取れるようになってきた。
その代わり奴らはすばしこいから、飛び道具が必要になる。
ということで弓矢。


●弥生時代

この時代のポイントは「貧富の差」。

水耕稲作や金属器などの文化・文明が大陸や半島から伝授された時代。

丁度この頃の中国ってのは戦乱の時代。
戦争に嫌気をさした連中が難民となって日本列島に落ち延びてきた。
で、その際に手土産代わりに農耕栽培の種とか方法論とか金属器とか
持ってきて、受け入れ側の縄文人はこりゃあ便利だと。

ところがこれが諸刃の刃。

生活が向上したのはいいんだけど、それが悩みの種。
余剰食料が発生して、しかも保存できる。となると、必然的に貧富の差が発生して
主従の関係が生まれる。そして組織対組織の血で血を洗う仁義無き戦いが
慢性的継続的に発生する。

実際、弥生時代になってから「環濠集落」や「高地性集落」など、戦いを前提とした
ムラづくりがなされている。

5: 名無しさん@おーぷん 2015/11/07(土)14:16:00 ID:jO6
要するに、富の蓄積が階級差をもたらし、組織が大組織体に進化していくようになった。
ムラからクニ、クニから国へと進化を始めたのが、弥生時代。


●邪馬台国

卑弥呼が30程の小さい国々をまとめてその代表になった、って話。
この邪馬台国が、どこにあったかの場所が問題で、近畿説と北九州説がある。
細かい話をすると他にも説があるらしい。でもざっくり言うと、近畿説と北九州説。

近畿説にすると、卑弥呼の邪馬台国が大和朝廷の前身みたいな感じで、
箸墓古墳がその墓地。
北九州説にすると、邪馬台国と大和朝廷は直接には無関係、みたいな感じ。
ちなみにおっさんは、北九州説を取りたいです。
詳しい話は二巡目の時に(その時があればですが)やろうと思います。

話すと長くなりそうなんで、今回は省略。


●天智天皇と園周辺

その後、大和政権ができる。聖徳太子が活躍して
人事制度や法律ができる。中央集権化への動きがはじまる。

その途中で乙巳の変(クーデター)発生。
天智天皇が蘇我氏から政権を奪うけど、評判悪い。
白村江の戦いでミソつけちゃったし。

結局壬申の乱(クーデター2)で天武天皇に奪われる。
めまぐるしくもあり血生臭くもありです。


このあたりは関裕二の本を幾つか読んでるんで、話してみたいことも多くあるんだけど
他の時代とのバランスが悪くなるんで、今回は省略します。


6: 名無しさん@おーぷん 2015/11/07(土)14:33:41 ID:jO6
●奈良時代

710年。元明天皇が平城京に遷都。これが奈良時代の始まり。
794年平安京遷都までの約80年間が奈良時代。

よく飛鳥奈良時代っていっしょにされるけど、飛鳥時代って592年からなんですね。
(今調べてわかったw)
ということは、飛鳥奈良時代ってのは、ほぼ200年続いたことになる。

江戸時代が260年くらいだから、飛鳥奈良時代ってのも、意外と長いし
時代を構成する人員の心理、についてはそれなりの変遷があってもおかしくはないわけで
なんか十把一からげにしそうになるけど案外要注意点かも。



●天皇について

卑弥呼の時代ってのは、神と対応するシャーマンと大衆と対応する代表が2人ペアで
政治(まつりごと)を行ってた。

実は天皇って存在は、このシャーマンに相当するもので、
飛鳥奈良の太古時代から現在に至るまで一貫してその立場をになってる。

シャーマンを担ぎ上げる「大衆と対応する代表」の顔ぶれがコロコロ変わるだけ。

で、問題は2つあって、ひとつはこのメカニズムはいつからそうなったのか、という
起源の問題。これが今一つ良くわからない。
謎の4世紀の頃に形が決まってきたんだろうと思うけど。
このある意味一番重要な時代の枠組みの成り立ちのプロセスがわからない。
卑弥呼の時代には、まだなかったのかもしれないし、卑弥呼が天皇系と無関係な
だけだったのかもしれない。
まあ、いくら考えてもわからないものはわからないので、とりあえずいま、ここでは放置します。


もう一つの問題は、天皇とペアになって「大衆と対応する代表」の側に
つこうとするのは誰か、という問題。これはある意味明確。

この部分に焦点を当てると、日本史はわかりやすくなるような直感があります。


7: 名無しさん@おーぷん 2015/11/07(土)14:53:16 ID:jO6
●飛鳥奈良時代

天皇とペアになって「大衆と対応する代表」の側についていたのが誰かというと、
飛鳥時代は、前半が蘇我氏。それが、後半、乙巳の変というクーデターで藤原氏に。

奈良時代は、藤原氏とアンチ藤原氏との間でシーソーゲームの80年間。


●平安時代 前半
平安時代になると、藤原氏の一強。といっても、藤原氏は4系統ある。
すると今度は藤原氏の系統間での戦いとなり、最終的には藤原北家が勝利する。
その頂点が、藤原道長。

「俺の人生、満月みたいなもんで完璧だぜ。へっへっへ」
という歌を詠んだのが道長絶頂のタイミング。
だが登山したら下山しなきゃいけないのは世の習い。
ここから一気に藤原氏は斜陽化w。


●平安時代 後半

藤原氏に実権を取られて鬱陶しいんで、天皇OBとなった上皇が政治の実権をとることにした。
ルールでは藤原氏が強いのは天皇に対してであって、上皇は藤原氏の勢力圏外。
そのため藤原氏は没落。上皇の院政が幅を利かせる。

すると今度は天皇と上皇の鍔迫り合いになる。
で、上皇と天皇が戦う。保元の乱。天皇が勝った。勝因をもたらしたのは源平の武士。
で、源氏と平家どっちが勝つかを競ったのが平治の乱。これは平家の勝ち。

平家は調子に乗って天皇よりも威張っちゃった。何だこのやろうってことで、平家をぶっ殺せが
合言葉。好機到来と源頼朝。壇ノ浦に平家を沈めちゃう。

8: 名無しさん@おーぷん 2015/11/08(日)11:23:37 ID:sGI
●鎌倉時代 成立期

後白河法皇『頼朝、生意気だな。よし!』「頼朝を討て!」
頼朝「なんじゃと?あ?こら!」
後白河法皇「え?あ。その、えと、間違えてました、、、。よ、義経を討て!」
頼朝「じゃあそのために全国に守護地頭を置かせてもらうぞ」
後白河法皇「ど、ど、ど、どうぞ、どうぞ」
以上、壇ノ浦の戦いの直後で同じ年の1185年の話。

頼朝「おいらを征夷大将軍にしてちょうだ」
後白河法皇「俺が生きてるうちは絶対に許さん」→1192年死亡。
→頼朝、1192年に征夷大将軍になる。

というわけで、以前は鎌倉幕府の成立が1192年(征夷大将軍になったとき)とみられていたんだけど
現在では1185年(守護地頭の設置による、事実上の幕藩体制。経済力の裏付けが取れた時点)
での成立と見るようになったんだとか。

「いい国作ろう鎌倉幕府」は遠い昔の郷愁であります。

9: 名無しさん@おーぷん 2015/11/08(日)11:32:34 ID:sGI
●鎌倉時代 横取り時代

初代鎌倉幕府の将軍源頼朝。馬から落ちて死亡。
実は北条氏による暗殺説がある。おっさんはこの説を取ります。

二代目は頼家。
この頼家が頼りがないからという理由で座敷牢に押しこめっちゃった。
ついでに暗殺。北条氏による暗殺。

三代目は実朝。
「この実朝が、頼家の暗殺犯だよ」とそそのかされて、親の敵、と、実朝を暗殺したのが
頼家の遺児の公暁。この公暁はすぐにひっ捕らえられて、将軍殺しの悪いやつ、ってことで
即日死刑。

わずか30年足らずの間に、源頼朝一族が全員消滅。
犯人は、北条氏。その北条氏が執権(キングメーカー)となって実質的な鎌倉幕府を牛耳る。


●鎌倉幕府 発展時代

鎌倉幕府の内紛を見て、これは鎌倉幕府そのものをぶっ潰す好機到来ということで、
後鳥羽上皇が全国に鎌倉幕府を潰せと命令するも、侍は鎌倉幕府の味方。
逆にぎお鳥羽上皇が捕まって隠岐に流される。コレが承久の乱。

以後、鎌倉幕府が天皇家を監視するために六波羅探題を設置。


承久の乱までは公家の京都支配、武家の関東支配と二元政治だったんだけど
武家が優勢になっちゃった。

10: 名無しさん@おーぷん 2015/11/08(日)11:40:54 ID:sGI
●鎌倉時代 斜陽時代

この頃は御恩奉公の封建時代。
大将が敵地に攻め入って、その領地をぶんどり、ぶんどった領地の支配権を部下に分け与えるというのが当時の世界。
なので、まず奉公が先にあって、恩賞として御恩がくだされるという流れ。

この流れにヒビが入ったのが、2度に渡る元寇。

モンゴルが2回も日本に攻めてきて、2回とも撃退。
しかしその戦いでは、現地の侍はすごく体力を消耗。
しかし、幕府としては、その働きに対して分け与える土地がない。

ということで、奉公しても御恩がもらえなくなった。
一生懸命働いた御家人が働き損の貧乏になってしまった。

それじゃあ可哀想だと、鎌倉幕府は
「御家人が背負っていた借金は返済しなくていいよ」
という徳政令を出した。(永仁の徳政令)

金貸しはびっくりして、モウ二度と御家人には金を融通しないことにした。
御家人はますます窮乏して苦しくなって、モウ鎌倉幕府じゃあダメだと思い始めた。

11: 名無しさん@おーぷん 2015/11/08(日)14:08:29 ID:Xe0
大化の改新は大化の改新やろ。
三流アカデミズムが何抜かしとるねん、と思てるで。

13: 名無しさん@おーぷん 2015/11/08(日)15:49:44 ID:g2T
>>11 >>12
わーい。スレ初めてのお客さんだ。いらっしゃいませー。

全般に、現在、「日本書紀」の記事の中身の信憑性が結構疑われ始めてるようなんです。
大化の改新に限定しても、郡評論争があったわけだし。
改新の詔自身が後世の捏造(と言うか脚色?)の可能性があるわけです。

興味深いのが、高校で教える日本史の教科書。
これは「三流アカデミズム」じゃないですよね?

山川出版社に「書き込み教科書詳説日本史B」ってのがあって、その2014年発行版に
そこで改新の詔を説明してるところがあるんですけど、(P24)

それによると、
「『日本書紀』が伝える勅の文章には後の大宝令等による殉職が多くみられ、
この段階でどのような改革が目指されたかについては清朝な検討が求められる」

とまあ、高校で使われる代表的な教科書の中で「日本書紀記載の改新の詔の内容は胡散臭い」って
いうことが指摘され始めてるんです。

実は、2007年版(2009年重版)の同著書にはこの注記が記されていない。
なので、最新の「アカデミズム」でも公式に、「日本書紀の中身は、眉唾だなあ」という
認識が出てきてると言っていいんだろうと思います。

17: 名無しさん@おーぷん 2015/11/08(日)19:32:45 ID:Xe0
>>13

わいはな、この国の史学界を指して、三流や、と断言してるんやで。

12: 名無しさん@おーぷん 2015/11/08(日)14:10:23 ID:Xe0
乙巳か庚子か知らんけど、おれは認めへんで。

14: 名無しさん@おーぷん 2015/11/08(日)15:55:01 ID:g2T
そういえば、日本書紀では西暦600年の遣隋使は、なかったことになってる黒歴史だけど、
結局、それがあって恥をかいたがゆえに、603年に人事制度(冠位十二階)、604年には就業規則(憲法十七条)が制定されて
その結果、満を持しての607年の遣隋使(リベンジ)だったりするわけで。

ま、三流アカデミズムを読み込むと、このあたり(卑弥呼の後あたりから聖武天皇当たりまで)の時代は、
どうも日本書紀が示す世界と実世界が乖離している部分が大きい可能性があるようです。
自分としては、三流アカデミズムも、結構バカにできないと思ってます。

15: 名無しさん@おーぷん 2015/11/08(日)16:13:36 ID:g2T
続きいきます。

●鎌倉時代 滅亡

まず天皇の世界で皇位継承が上手くいかなくなって皇位継承のトラブルが発生して2大勢力が発生した。
鎌倉幕府は交代交代で仲良くやったらいいやん、と指導したんだけど、後醍醐天皇がそれを逆恨み。
だってそれじゃあ自分の子供に天皇を継がせられないから。

なもんで、後醍醐天皇は鎌倉幕府をぶっつぶせと全国に天皇命令。
鎌倉幕府は「ふざけるな天皇の野郎。おい、足利尊氏、お前ちょっと天皇をぶっ飛ばしてきてこい」

ところが足利尊氏、この命令にムカっときた。喪中だから戦争したくないといったのに戦いを強制された。
それにそもそも足利家の家柄は北条氏より上。なのに使い走りってか。
あったまきた、ってことでぶっ飛ばすはずだった後醍醐天皇にひそかに相談。
足利尊氏は、逆に鎌倉幕府をぶっ潰すことに決めた。
鎌倉幕府デタラメ過ぎだしな、と、新田義貞も同この流れに調。大勢は決した。

この流れの転換を察知したその他の武士団も、じゃあ俺達もそうしようってことで、鎌倉幕府をぶっつぶすことにした。
多数決で、あえなく鎌倉幕府は滅亡。1333年。



●建武の新政~室町幕府の成立

後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒せと命令。
鎌倉幕府が武士団によって倒される。
じゃあご褒美をちょうだいってのが、正しい流れ。

でも、後醍醐天皇、お前武士どもなんて、所詮虫けらじゃん。虫けらに恩賞はいらないよね。
あかん、こいつはあかんやつや。足利尊氏、後醍醐天皇を見限った。


当時天皇は南北朝に分かれてて、どっちも俺のほうが正しい天皇だって言い争っていた。
後醍醐天皇は南朝。その後醍醐を見限った足利尊氏は、北朝の天皇に言い寄って、征夷大将軍にしてもらう。
というわけで、めでたく室町幕府の成立。

でも世間では、南北朝にわかれた天皇と、それぞれに武士団がついて騒乱に明け暮れる時代。
足利尊氏の息子の義詮は、一生ずっと戦いに明け暮れる血なまぐさい一生だった。

16: 名無しさん@おーぷん 2015/11/08(日)16:31:58 ID:g2T
●室町幕府の発展

三代将軍足利義満。これがすごいやつ。

江戸幕府もそうだけど、三代目の将軍がしっかりしてるとその後その組織は長続きしてる。
江戸幕府も家光の時までにガッチリ大勢を築いたからその後長続きした。
鎌倉幕府の源一族は三代で滅亡しちゃった。
三代目って大事ね。あだしごとはさておき。。。

足利義満は南北朝に働きかけて天皇の再統一。世間は平和になる。
中国に対して「日本国王」って名乗って、朝貢貿易(名を捨てて実を取る貿易)を再開。
ある意味聖徳太子以来の日本のプライドに泥を塗って私腹を肥やしたすごいやつ。

でも、誰も文句言えない。日本一の実力者だから。

金ピカの金閣寺も作っちゃう。まじすごい。
この頃の足利義満に匹敵するのは、全盛期の頃の豊臣秀吉(朝鮮出兵前まで)くらいかも。

18: 名無しさん@おーぷん 2015/11/08(日)19:47:17 ID:Xe0
大化以前にオフィシャルな年号があったんか?
あれへんやないか。そらな、蘇我の牛耳っていた時代に存在したかも知れん幻の年号の可能性は捨てきれん。
とすればや、それほどの抹殺、焚書、断絶のあった大化とそれ以前を画する一線としてのクーデターやったら、限りなく革命に近いクーデターや、と言わざるを得へんやろ。
それを名称変更とか、「目噛んで死にさらせ、この三国人アカデミズム」と罵倒されても反論出来んやろ。

日本書記自体に(全面的)信憑性なんかあるかい。そんなん、みんな知ってるで。そやけど、全部嘘やちゅう証明も出来んわな。
取捨選択がその学者のセンス、才能、腕の見せ処やろ。
帰化人アカデミズム存在意義無いで。

19: 名無しさん@おーぷん 2015/11/08(日)19:50:34 ID:Xe0
帰化人は日本史に一切、関わらんといてくれ。
貴様ら、予断大杉で、基本、学問には向いてへんね。

20: 名無しさん@おーぷん 2015/11/08(日)20:11:02 ID:Xe0
日本に年号在る、悔しいわなwww

そやから、その年号のエポックメーキングと申せる大化の改新をディスりとーて、ディスりとーてしゃーないんやろ。
大化の改新は革命やで。蘇我氏宗家ちゅー巨大な峰が消滅したんやからな。生き残った倉麻呂ー赤兄ちゅう流れは嫡流やないからな。

そもそも、諡号を平安以前に定められた過去の天皇を勝手に「おおきみ」と呼ぶなよ、三流アカデミズムよ。
貴様ら、諡号の意味分かってて学者やってるんか?勝手に諡名抹殺するなよな。何が大王(おおきみ)じゃ。
奈良か長岡か平安かどの時代かは分からんが、「天皇」と言う称号に定まり、諡号されたんじゃ。

21: 名無しさん@おーぷん 2015/11/08(日)20:41:36 ID:Xe0
日本書記 X

日本書紀 ○


やった。スマホの変換ソフト作った奴、在日か帰化人に違いない。

22: 名無しさん@おーぷん 2015/11/09(月)21:19:41 ID:RZB
劉氏の宋(支那の南北朝時代)は420~479年。南朝のトップバッターだ。
宋書と言うのはこの劉氏の宋を記した書だ。ここに倭の五王の使者の入朝の記録がある。
何故、魏の滅亡以降、劉宋に至る間、公式の史書に倭の使節交通の記録が無いのか?
理由は交通を遮蔽させるローカル軍閥がルート上に複数個成立したからであろう。

では、支那南北朝時代の劉宋に何故、使節往来の道が復活したのか?
それは劉氏の宋が支那北朝と対峙していた事情が背景に存在する。
南朝の劉氏宋政権がライヴァル(北朝)に対する常套手段、「遠交近攻の策」によって、倭の交通ルート上の旧楽浪、旧帯方両郡、及び遼東半島周辺の異民族諸勢力と交遊関係を結んだ事が理由だろう。
ルート上諸勢力(高句麗、百済だ)は劉氏宋政権への畏れ故、倭王武の上表文奉呈の使節の交通を妨害出来なかった、と言う事だ。



23: 名無しさん@おーぷん 2015/11/09(月)21:29:33 ID:RZB
この5世紀の使節の上表文に倭が海北し、征定する事90数カ国とある。
この場合の90数カ国の国とは、県の意味だろう。我が国の律令以降の感覚だと、郡に相当する。

その上表文に任那の地名が存在する。
これは支那の史書に有る記録だよ。
日本書紀ではない。支那の記録だ。
ここに任那とある。存在しないと言う説こそ、邪説だ。

24: 名無しさん@おーぷん 2015/11/09(月)21:54:52 ID:RZB
古事記は712年、日本書紀は720年に成立している。
しかし、宋書の編纂は劉氏宋滅亡間もなくであろうから、500年代初頭(もしくは、400年代最終年頃)だ。
古事記や日本書紀よりも200年以上前の海外の史料に記載されている地名、任那(の歴史的関係図式)の存在を頭ごなしに否定する自称アカデミズムが三流でなくて何だい?

25: スレ主さん 2015/11/10(火)23:21:21 ID:96j
アナタは一体何のために、誰と、何について戦おうとしてるのでしょうか?
ようわからんです。

勝手に歪曲して決めつけて、頭ごなしに攻撃して一人悦に入ってる。
あなたのその姿、正直不気味ですよ。

そもそもこのスレは、そういう議論をするスレじゃあないんですが。
あなたに関わるのは時間の無駄なだけのようなので、スルーしますね。

26: 名無しさん@おーぷん 2015/11/12(木)00:53:50 ID:RDF
>>25

本当に申し訳なかったね。
>>1さん宛のレスではなかったので、

>誰と闘おうとしている

と言う疑問と不快はごもっとも過ぎる。
自分の行使した書き込みの自由度が野放図過ぎました。
最低マナーで申し訳なかった。
スレの趣旨から逸脱している。荒らしと受け取られて当然。
ごめんなさい。内容には自信がありますが、そんな弁解は通用しません。
文字通り、スルーして下さい。
スレッドの意図と関係のない一方的レスですからね。
気を取り直して、書き込みを続行して下さい。

何にせよ、私の中に蓄積されていた我が国史学界への憤りを爆発させるスレッドでない事は当然。
本当にごめんね。

27: 名無しさん@おーぷん 2015/11/12(木)00:55:02 ID:RDF
もう、逸脱的乱入はしないので、安心してね。

28: 名無しさん@おーぷん 2015/11/14(土)11:30:59 ID:O15
わざわざありがとうございました。

ということで、続き行きます。



●室町時代2

室町時代は、初代、3代、6代、8代、15代を押さええておけばいいのかなと思いました。

まず、初代が天皇の親戚争いを利用して幕府を開く。でも天皇家が南北に乱れてるので
戦乱の世の中。足利家も兄弟げんか。二代目は結局戦争に明け暮れて終わり。

、3代将軍義満が超大物。
自分の威光で天皇家を仲直りさせる。おまけに全日本の中国貿易を行ってに引き受ける。
天皇になろうとした男。でも自分の死後、4代目に裏切られるというw5代目は夭折。
これで一応系統が絶えちゃった。

しょうがないんで親戚一同で次の将軍をくじ引きで(!)決めた。
くじびき将軍は元坊さん。

これがまたやり手で、三代将軍以上の切れ者。
ただし、本人にもくじ引き将軍の劣等感があったためか、必要以上に圧政を行った。
逆らうものはやっつけるのは当然として、勢力が拮抗したものもやっつける。

このままじゃあ俺も殺される、やられる前にやろう、ってことで部下の赤松満祐に殺される。
これが嘉吉の乱。

この辺りから、室町幕府ってガタガタじゃん、って内外が感じ始める。
すると各地の守護地頭は、現場で自分の実力を強くすることに専心する。
こうして大手が守護大名になっていく。

ちなみに室町時代は、公地公民ではなく私地私民でいいよというスタンス。
荘園はあるんだけど、守護地頭が横取り三昧。当時は全国警察もないので、全国各地が
暴力団の巣窟状態。

29: 名無しさん@おーぷん 2015/11/14(土)11:37:40 ID:O15
●室町時代3

あ、くじびき将軍は6代目ね。

さて8代目将軍。これが史上最低の将軍。

こいつは代表の座に座ってるのが面倒くさいんで、仏門隠居していた弟を説き伏せて
将軍の座を譲ると約束。ところが自分のところに子供が生まれちゃった。

で、どうしたか。
あなたならどうしますか?

選択肢1 「やっぱり子供に譲る。弟、ごめんね」
選択肢2 「約束は守る、息子よ妻よ、ごめん」

どっちにしても、小さい傷で収まるはず。
ところがこの無責任将軍、第三の道を選択しやがった。

選択肢3 「好きにしてちょうだい」と言い逃げ。超無責任。

さあ大変。
子供の味方をする有力者、弟の見方をする有力者。
両方が相乱れて戦乱の世。バトルロワイヤル。10年間ぶっ通しの殺し合い。
戦乱の場となった京都は焼けつくされてボロボロ。これが有名な応仁の乱。

日本はだんだんと無政府状態になっていってしまった。

30: 名無しさん@おーぷん 2015/11/14(土)11:49:50 ID:O15
●戦国時代

世の中は群雄割拠で戦国大名が全国のあちこちでぶいぶい言わせ始める。
実力さえあれば出世したい邦題。そのかわりいつ部下に寝首をかかれるかわからない恐ろしい時代。


この時点で俯瞰すると、
一応、天皇家はいるけどお飾り状態。
それにまとわりついている摂関家も存在はするけどお飾り状態。
室町幕府も存在するけど、お飾り状態。

要するに時代の遺物として権威はあるけど権力がなくなっちゃった。
権力は地方の守護大名が持つようになった。
また、この頃から村も定着して生産力も上がってきた。

要するに過去の遺物たちが混沌としながら新しい時代を待つような感じ。

そんな中、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と続いて江戸時代が始まる。


●江戸時代1

江戸時代は、初代、3代、5代、8代、15代を押さえておけばいいかも。

初代が江戸幕府をつくって、一応安定させた。

3代目がすばらしかった。
三代将軍家光は、諸藩の力をそぐために参勤交代をさせた。
また、幕政に口を挟むことを許さなかった。これで権力の地盤は安定。

さらには、異母兄弟の保科正之。家光は、彼に政治のあとを託した。コレが大正解。
幼少の四代目将軍の後見人を頼んだんだな。これがうまくはまった。

というのも、家光の代までは、とにかく手向かいそうな藩にたいし、
因縁をつけてどんどん取り潰していった。いわば戦国時代の残滓のような政治。

これが結局浪人を産み、世間の空気が悪くなっていた。
由井正雪の乱とかはこの文脈の中で生まれている。

この武力に因る統治を緩めて平和安定政治ヘとかじを切ったのが、保科正之。
末期養子の禁を緩和するとかいうのはその現れの一つ。



31: 名無しさん@おーぷん 2015/11/14(土)12:04:33 ID:O15
●江戸時代2

特筆なのが、5代将軍綱吉。
生類憐れみの令を出した犬公方として有名。
折衝を慎め、ってことでたとえば野良犬を虐待すると死刑、みたいなとんでもない法律を施行させた大変な人。

だからこの将軍は大馬鹿者だとして、おっさんは学校時代に習ったんだけど、現代では評価が大逆転しているらしい。
海外の研究に寄るものらしい。それを知っておっさんはびっくりした。

要するに、海外の研究者によると綱吉の約三十年間(一世代相当)に渡る「いきもの殺し禁止令」は時代の空気を変えたんだとか。

それまでは戦国時代の空気の流れを汲んでいるため、人間を大根のようにバサバサ切ってもへでもなかった。
でも、生類憐れみの令に触れた後は、命は大事な物だという価値観へと大転換。
以後、人間らしい憐れみの気持ちをもつ人種になっていったんだとか。

言われてみればそういうこともあるかもしれない。


●江戸時代3

8代将軍は財政再建担当将軍。成功したんで名将軍っていわれてる。
以上。w

おっさんが一番群を抜いてすごいと思ったのは15代将軍。徳川慶喜。
ものすごい切れ者で、ものすごく先が見えて、ものすごく自分の立ち位置がわかっていて、
ものすごく自制心があって、結果として自己犠牲によって日本を救ったという幕末の大偉人。

おっさんは幕末の大偉人という名誉を、徳川慶喜と西郷隆盛の2名に捧げたい。
触れると長くなるし細かくなるので今回のターンでは触れないけど、いずれなぜそう言えるのかについて触れたいと思います。


あと、江戸時代で言うと、江戸時代の最大の功績は、「読み書き算盤」の寺子屋を普及させたりして民度や民力を高めておいたこと。
結局これが底力となって、幕末から明治に大転換しても国が崩れない土台として機能していた。
平和で、武力にも満ちて、世界に通用する文化も花開いて、文武のバランスも取れているという不思議な時空間、江戸時代。

これはまた後々のターンでじっくりお話したいと思います。

32: 名無しさん@おーぷん 2015/11/14(土)12:10:11 ID:O15
●明治以降

幕末に外国がやってきた。
開国か攘夷かで揉めて、だらしのない江戸幕府には任せてられないぞってわけで、王政復興の大号令。

明治政府ができた。
明治は、世界に追いつけ追い越せと、富国強兵。
その結果、日清戦争、日露戦争にガチンコで勝って、大国になったのはいいけれど、今度は軍部が慢心した。
軍部の独りよがりで第二次世界大戦。敗北。

アメリカが徹底的に日本を去勢。しようとおもったところに朝鮮戦争勃発。
方針大変更で日本をアシスト。それを利用して日本は高度経済成長。でも石油ショックで一段落。
その後はバブルを経験しつつ、低成長で、現在に至る。

というわけで、次回からはもう少しゆっくりとターンをしたいと思います。

33: 名無しさん@おーぷん 2015/11/14(土)14:50:06 ID:O15
●一巡してみて思ったこと、いくつかふりかえり

まず書き込むために、背景や全体を知る必要があるというプレッシャーが出てきたため
いままで以上に関連入門本を読み漁ったこと。これは学習推進効果として期待していた効果ですが、
自分に対しては結講効果的でした。

次に自分の知識がかなり粗密バラバラだったこと。
特に近代史については無知だった(あるいは無知である現在進行形)ということを痛感しました。

このスレを立ち上げる前は、「謎の4世紀」に深い関心があったんですが、いまはどちらかというと
明治以降、終戦前までの(自分にとって)謎の数十年に興味関心が移ってきました。

それはそれとして、巡回と並行してコツコツ掘り下げていくつもりです。

ちなみにいま、目から鱗が落ちつつあるのが「桂ハリマン仮協定破棄」の話です。
これが日米関係のターニングポイントになったという説があって、結構信ぴょう性の有りそうな説でした。
今回の巡回発言学習をしなかったら気が付かなかった学習でもあったと思います。

ちなみに、ここでチャッチャカ私が書いているレベルは、現代では「小学生レベル以下」なんですね。
ネットを探ってみて、ちょっと衝撃を受けました。

ネットの個人探求やウイキペディアの書き込みを大学級とするならば、
詳説日本史研究・用語集・資料集(いずれも山川出版社)あたりが高校級、
日本史通史の入門書が中学生級。で、おっさんが持ってる知識が小学生レベルのラフスケッチ。

おっさんが学んだ頃の昔と比較すると一つ一つの歴史的事実についてかなりエッジが鋭くなってるのを感じます。
ここ数十年の研究の成果なんでしょうけど、想像以上に学習のハードルが高かったことに今頃気がついています。
まあでも趣味なんで無問題ですが。

ということで、自分自身への刺激を第一義としつつ、それを読んでくれる人にとっても何かしらの刺激が提供できれば
ありがたいかなと思いつつ、二巡目にはいろうと思います。

●二巡目のテキスト「
「読むだけですっきりわかる日本史(後藤武士)」を使おうと思います。
「●」の単元をこれに沿いつつ、この本と対話するような感じで進めていけたらなあと。

どうなるかはわかりませんが、自分への刺激になることは間違いないと思うんで、やってみます。



46: サボテン■忍法帖【Lv=11,せんし,MjD】◆SABO///jlE 2015/11/19(木)19:05:33 ID:tw@SABO_jlE
>>33
ここまで読んだ

34: 名無しさん@おーぷん 2015/11/14(土)15:03:47 ID:O15
二巡目

●旧石器時代

「読むだけですっきりわかる日本史(後藤武士)」ですが、
いきなり最初のページですごいギャグをかましてくれてます。
まるごと移しますね。

引用開始----

>打製石器は文字通り、だせえ(ださい)石器だ。(P16)

---引用終了

びっくりぽんのオヤジギャグ。でも、単なるダジャレではなく、有用でもある。
おみそれしました。


もうひとつ、「相沢忠洋」
ネットで調べてみたら、明大教授で考古学の権威、杉原荘介に功績を横取りされそうになるなど、下世話なトラブルに巻き込まれたりしてますね。


この時期は、日本が大陸続きで大陸から人がやってきた、という程度の話ですね。

35: 名無しさん@おーぷん 2015/11/14(土)15:14:16 ID:O15
●縄文時代

おっさんが思うに、日本の精神風土を考えるときに欠かせない、
はずせない、重要であると思うのが、この縄文時代です。

まず、縄文時代はいまから1万2千年(あるいは1万5千年)ほどまえから、
紀元前3世紀(あるいは紀元前20世紀)までの約1万年以上の
長い期間を示してます。

日本は四季の変化が豊かで、水も豊富。
動植物の生育にはもってこいの地域です。
おまけに大陸とは隔絶されているので、勃興する凶暴民族との接触の可能性も低い。

こういう特殊環境のため、共存共栄という精神風土が根付いた、と、おっさんは思うんですね。


まずこの前提があるから、つまり、1万年に渡る歴史の蓄積があるから、
その後の弥生時代の文明文化がやってきても、すぐに壊されれることはなかった。
紀元前前後辺りになると時代が尖ってくるのでまた話が違ってきますが、その数百年前あたりまでは、
変化は緩く、しかも共存共栄という形でゆるゆると伝わってきたというのがみえます。

要するに、大陸その他から文化文明を引っさげた難民がやってきたら、とりあえず自分たちと一緒に住んでいいよと。
文明文化を教わりながら、自分たちの邪魔をしないかぎり、一緒に暮らしていいよ。そういう世界が広がっていたようなんですね。

縄文住民が原始的な田畑を持っていたとすると、大陸からの難民たる弥生人にその他は他の隣の荒れ地を耕していいよ、
的なつきあい方だったんじゃないかと思うんです。

それが可能だったのは、自然環境に恵まれていたから。
ただし、大地の恵みと天の恵みは豊富だったけど、地震・津波・台風・火山爆発などの天変地異も非常に多かった。
なので自然と、アニミズム(すべてのものに精霊が宿っているという考え方)の信仰が発生して根付いたんじゃないかと思うんです。

で、それがあるがゆえに、神道の八百万の神々、という発想につながっていく。



1万年の長きにわたってねりこまれてきた縄文文化という独自の文化があったがゆえに、
弥生文化がやってきても駆逐したり駆逐されたりセず共存共栄が可能だったんだろう、と個人的には理解している時代です。

36: 名無しさん@おーぷん 2015/11/14(土)15:21:31 ID:O15
●縄文時代2:通説に異議あり!(屈葬について)

縄文時代で、おっさんが痛切に違和感を感じているところがあります。
それは屈葬。

屈葬というのはご承知の通り、腕や足を折り曲げて、大地に埋める縄文時代の葬儀なんですが、
その理由がおかしいと思う。通説では、死者の蘇り(ゾンビ)が怖くて屍体を折り曲げた、という話でしたが
そりゃあ間違ってるだろと思うのがおっさんの立場。

何故間違ってると断言できるのかというと、
もしそういう動機だったとするなら、手足の「骨を折り曲げる」はずでしょ。
じっさいにやられているのはそうじゃなくて、胎児のように手足を縮こまらせてるわけです。

おっさんが思うには、生まれ変わってこいという意味が込められてるんじゃないのかなと。
母なる大地は毎年新しく花を咲かせ実を結ぶ。同様に死んだ人間も母なる大地を経由し、
女性の体を経由して生まれ変わる。そう考えていたのではないだろうか。

黄泉の国にいくにあたり、黄泉の国で「生まれる」ことができるように、胎児の形態を真似たのではないか。


そんなことをおっさんは思っていたりします。


たとえば縄文時代の死者とみられる骨の周りから花の花粉が大量に出てきた。
これはすなわち死者の周りを花で埋めていた証拠だという話。

であるならば、縄文時代の人間の心情というのは現代とそれほど違わないのではないかと
とするならば、「ゾンビ化予防のための屈葬」という発想は現代人の驕りに寄る発想なのではないか
縄文人の文化の程度を見下した傲慢な発想なのではないか。そんなことを思う今日このごろだったりします。

37: 名無しさん@おーぷん 2015/11/14(土)15:36:18 ID:O15
●弥生時代

大陸及び半島から渡ってきた文化文明。
ある意味災いだったりもします。

というのも、伝えられた農耕ノウハウという代物は、
みなさんもご承知の通り、富の蓄積を可能とし、貧富の差を生むに至った。

また、田植えなど、共同作業が必要だったり、水路の確保の必要性など、集団単位での
争いごとが生まれるようになった。

さらに悪いことには、青銅器と鉄器が伝えられてきてしまった。
このことは争いの質が致命的になることを示している。


総合すると、集団対集団となって、殺しあう災いの種が大陸や半島を経由して伝えられた
というのが弥生時代の性質だということができましょう。

38: 名無しさん@おーぷん 2015/11/14(土)15:47:01 ID:O15
●弥生時代2

この弥生時代から古墳時代にかけて、日本史の原始的な背骨が確立したと思われます。
「日本史の原始的な背骨」なんて、ものものしいですが、要するに「天皇(最初の頃は大君)」
のことです。

一巡目の時に改めて痛切に思ったのが、日本の歴史というのは、つくづく天皇を中心とした
歴史なんだなあということでした。

天皇というメカニズムは、日本人という民族の精神的な支柱と言ってもいい。
そしてその日本人が持つ歴史というのは、現存する政体の中では世界で一番古い歴史を
持つといえる。それもぶっちぎりで。

なので、弥生時代、古墳時代にどのように天皇(及びその原型)が練り上げられていったのかは
ものすごく重要な事なんだけど、残念ながら無文字文化時代。

結局、中国のいい加減な文献に記載されている事項と、古墳の伝達速度と形態の変遷。
そして、あとは各地の神社に当時の口伝として残された古文書。これらをつけあわせながら
その姿を探っていかなければいけない。

その際に厄介なものがひとつあって、それが日本書紀。

最近の研究によると、この本には、どうも、この本には微妙に嘘が散りばめられている。
つまり、口伝時代の歴史(そしてそれは日本書紀編集の時代には内容がわかっていたもの)
を確信犯的に、当時の政権に都合のいいように書き換えて正史としたようなんですね。
なので、どの部分が本当でどの部分が嘘なのか、みたいな検証も必要になってくる。

恐ろしく大変でかつ難しい作業だったりします。


不幸中の幸いなのが、日本人は物持ちがいい。そして、伝承は批判を加えずに正しく伝えようとする
性質が強い民族でもある。なので、多方面の研究から、次第に新しい姿が分かり始めてきてるようです。



39: 名無しさん@おーぷん 2015/11/15(日)09:55:38 ID:Azg
●弥生時代~古墳時代のポイント1 倭の国

まず大きな流れを概観してみます。

最初は数百にわかれた小さいムラ状態だったのが、戦闘等を繰り返して、
次第に大組織に集約されていきます。そしていくつかの大きい集団になって、最後は
一番大きい物が日本に睨みをきかせる。こういう三段階の構造になっています。

第一段階である、最初の数百にわかれた小さいムラ状態というのは
卑弥呼の邪馬台国よりも更に前の時代。
漢書地理志の「楽浪郡よりあっち側に百国以上にわかれた倭人共の国があるよ」
が、中国古文書にみる日本の最初の登場。

ちなみに「倭」なんだけど、
意味は「ちんちくりんのおチビさん」という、バカにした意味で、
当時の中国の人から見たら原住民でも見るような目立ったのかもしれない。

その「倭」の読み方が重要で、当時の発音では「やまと(もしくはやまど)」という発音だったらしい。
もう一つ重要なこと。邪馬台国の「台」なんだけど、これも当時の中国では「と」という音が
あてがわれていたんだとか。(井沢元彦の著書に書いてあった)

倭というのは、その程度の意味なんだろうと思う。

40: 名無しさん@おーぷん 2015/11/15(日)10:05:43 ID:Azg
●弥生時代~古墳時代のポイント2 卑弥呼

2世紀後半に倭国大乱と言われる大戦乱があって、それを卑弥呼が抑えてクニを切り盛りした。
というのが魏志倭人伝から読み取れる。

この邪馬台国の卑弥呼なんだけど、民間人による研究がすごくて調べれば調べるほど
何がなんだかわからなくなってしまうという、樹の枝を探そうと森に来てしまって途方に暮れるの図。

だけどわかってきたこともある。

まず、当時の状況は二頭政治。
神と交信する巫女(シャーマン)と、大衆と交信する代表者の2名による合議政治。
実質的には大衆と交信する側が実務を一手に伴ってるんだけど、その権威は、
つまり言い換えるとタウ集を統治する正当性は、シャーマン側のカリスマによって担保されている。

大衆という組織を無事に統治するためのしくみで、これは(外国は知らないけど、日本の中においては)
弥生時代の頃には少なくとも既にその原型があった、といえるし、その姿を邪馬台国の卑弥呼に見ることができる。

そのひみこだけどおそらくは「日巫女」なんだろうとおもう。太陽信仰。
太陽はすべての恵みの源だから神として崇めるには最適のアイテム。

問題なのは、皆既日食が卑弥呼の晩年に起きちゃったことw
そしてその頃に卑弥呼が死んでいる。おそらく殺されたんじゃないかな。お前のせいで太陽神が消えちまった、ってことで。
そして後日、アマテラス神、天岩戸隠れの神話は皆既日食の恐怖体験から生み出されたものだろうと思う。
そう考えるのが自然。

神話ってのは、荒唐無稽なようで、何かしらの当時の体験を当時の科学水準で合理化して物語化して伝えられてるもの。
だから神話というのはそのまま100%真実ではないけど、同時に荒唐無稽な全くのデタラメでもない。
ナイーブなものとして取り扱う必要があると思う、というのがおっさんの立場です。

41: 名無しさん@おーぷん 2015/11/15(日)10:15:17 ID:Azg
●弥生時代+古墳時代=神話時代

266年に卑弥呼の次の次の跡継ぎが中国に贈り物をした、という話を最後に、日本の話が消える。
次に出てくるのは、391年の高句麗好太王の碑。この間の150年間がどうなってるかわからない。
しかし、その間に小さい集落が段々と集約されていったことは古墳を見るとわかる。

この頃の、古墳の形と大きさと副葬品の多さを分析すると次のようなことがわかる。

最初は支配者が。墓を作る。
その支配者の勢いが段々と大きくなってくる。
ある程度まで大きくなったあと、フランチャイズ化する。
そしてなくなる。

副葬品を見ると、内容的には3段階に分かれてて、
前期はシャーマン的要素が強かった
中期になると、武力を示すものや馬が増えてきて、
後期になると、小粒で家族団らん的になる。

それから、各地の歴史と伝統のある古い複数の神社で口伝として書き残されているもの。
これらを日本の神話一般と付き合わせてみると、古代日本統一に向けた戦乱の様相が見えてくる。

これらを全部ひっくるめて考えると、
西暦の200年台には、大きい、(といっても、ムラを数十集めた段階。なので、今で言う県程度の大きさか?)
王朝が幾つかできあがっていて、300年台にはそれがほぼ1つになりつつ、それが朝鮮半島に出兵し、
やがて押し戻される、というような動きをヘた後、奈良盆地に大和朝廷ができて、500年台以降の話につながっていく、
という流れがおぼろげに見えてくる。

42: 名無しさん@おーぷん 2015/11/15(日)10:25:35 ID:Azg
●神話時代 アウトラインとしての仮説

で、そもそも邪馬台国自身が九州にあったのか、近畿にあったのかもまだ未定の現在だけど
関裕二や梅沢恵美子や井沢元彦の本を読み漁ると、ぼんやりと見えてくる姿がありました。

ざっくりラフスケッチをすると、
まず、卑弥呼の邪馬台国は北九州にあって、出雲大社の出雲が現場で王朝を持っていた。
それらとは別に、近畿にも王朝があり、その他地場にもそれぞれ有力豪族がいた。
で、当時は鉄の支配が重要で、それをめぐる駆け引きがあった。

また、当時の世界観は瀬戸内海及びその周辺、それと日本海側の中国地方が日本世界。
で、近畿の集団が強くて、出雲をいびり続けていた。吉備とか物部あたりが尖兵になってた。

やがて出雲は征服され、邪馬台国も駆逐された。駆逐された邪馬台国は宮崎に逃げた。
出雲のやり取りは国譲りの神話に書かれてるし、卑弥呼の死とトヨの再生は岩戸神話に書かれている。
で、近畿で、王朝ができるんだけど、その前にどうやら近畿の連中は、トヨをだまし討にしてしまったらしい。
これはまずいってんで、その子孫をシャーマンとして仲間に引き入れる。そして大和朝廷の完成。

ざっくりこんな物語が出てくるような感じでした。
で、このシャーマンというのが今で言う天皇の立ち位置。

なので、大和王朝は、私地私民制度が原則なんだな。
だって地方豪族の寄り集まりだから。そしてそれを中央集権にしようと言うのが西暦500年台の動き
飛鳥時代の話になります。


43: 名無しさん@おーぷん 2015/11/15(日)10:47:46 ID:Azg
●飛鳥時代 大伴金村の割譲・磐井の反乱

年号の分かっている事件とその事件からわかることを点描してみます。

・391年 倭軍出兵、百済、新羅を破り服従させる。
 →この頃にはある程度の国内統一ができており、充実した兵力を持っていたことがわかります。

・512年 百済に伽耶を4国割譲。(by大伴金村)
 →これは、まず当時、大伴金村というのが政治を牛耳っていたというのがわかります。
  実はこの大伴金村、継体天皇を担ぎだしたやり手でもある。(コレについては後述)
  後にこの動機が買収であったことがわかって大伴金村は失脚。

ただねえ、、、おっさんが見るに、「割譲」なーんていう主体的なもんじゃなく、
実情は「横取り黙認」程度のことだったんじゃないかって思うんです。

というのは、4世紀の朝鮮半島の勢力地図と6世紀の朝鮮半島の勢力地図を見比べると、
明らかに高句麗が力をつけて南下してきて百済を侵食してる。
百済は南に押し出されて、しょうがなくなく伽耶を蚕食する。
そんな力関係が見えるわけです。

ちなみに当時の朝鮮半島は、百済、新羅、伽耶の3国に分かれてるんだけど、
百済と新羅は統一国家。伽耶は、統一国家にならないで、まだ小さい、ムラのようなクニの連合体の状態だったりする。


527年 磐井の反乱
大和朝廷が朝鮮半島の新羅を征伐に行こうとして、通り道だった九州の磐井にも、お前も協力しろって言ったんだけど
磐井は当時九州を統一してて、新羅から軍資金をもらってて、大和朝廷の言うことを聞かなかった。

ちなみにこの磐井の大将は若い頃に大和朝廷で働いていたらしくて、大和朝廷からの九州征伐大将とは顔見知りだったとか。

おっさんが思うに、これ、国造の反乱ということになってるけど、地方は必ずしも全国的には服属していない状況だったんじゃないのかなと
その証拠の一端が、磐井の「反乱」だったのではないかなと。更に言うなら、「反乱」とか言ってるけど、反乱ではなく磐井の側から見ると
普通の戦争だったのではないかなと、総じて言えるのは、この頃の日本は、まだその程度の統一度合いだったのではないのかなと。

そんなことが仄かに読み取れるようなきがするんですね。

44: 名無しさん@おーぷん 2015/11/15(日)11:07:06 ID:Azg
●天皇の系図

この頃の天皇の系図を見ると面白いことがわかります。

継体天皇以降の天皇は、まあ、その実在がほぼ判明しているといえるんですが、継体天皇の前辺りから以前は
どこまで本当なのかよくわからないんですね。

まず、初代神武から9代開化までが怪しい。あまりにも理路整然とつながってるんです。
兄弟や親戚に飛ばない。そもそもそういう枝葉が系図に全然出てこない。
そして25代の武烈天皇で、一旦途切れるんです。

で、26代が継体天皇。そもそも諡である継体というところがそのずさんさを暗示していて面白い。
天皇って本来すべて継体であるわけなのにわざわざ継体と強調せざるを得なかったというところが皮肉というかなんというか。

逆に言うと、当時の天皇(というか、厳密には天皇ではなく「大君」ですけどね、まだ。)の重さの程度がわかるような気もします。
要するに豪族たちの力比べに寄る争いを、天皇の権威を使うことによって省く、という機構なんですね。
そのかわり、天皇には権力を持たせない。そういう集団の智慧みたいなものが醸成されて運用され始めている時代なのかなと思います。


●憲法十七条

ちなみにこの当時は、天皇(というか正しくは大君)として頂点に君臨するためには、有力豪族の推薦が必要であり、それは合議制にもとづくものだった。
そしれそれを明文化したのが、聖徳太子作と言われる憲法十七条。あれは、憲法というよりはひとことで言うと話しあって決めろ、って言う政策マニュアル。
そしてつくられた当時のドタバタを考慮すると、当時の現状追認で作成されたものと見るのが正しいように思えます。

ちなみに。

中国の倭国伝によると、西暦600年に遣隋使が来た。
でも、日本側が中国の臣下となる朝貢じゃなくて対等の立場を主張するものだから、
中国の皇帝が「ちなみにおたくら、どういう政治してるの?」て聞いたら出てきた回答が。。。。
「太陽を拝んでます」

中国の皇帝「だめだこりゃ」(未開人すぎる・・・・)

なもんで、日本(当時まだ日本という名前はないんですが便宜上。。。)に急遽戻って、
急いで人事制度を作り、就業規則をでっちあげるんですね。

この人事制度が603年制定の冠位十二階であり、就業規則が604年制定の憲法十七条です。
背伸びして文明国に並ぼうとするこの動きは、明治時代の鹿鳴館政策をも思い出させてくれる哀れで滑稽な態様です。

ちなみにこの人事制度の画期的なところは、能力のあるやつは個人でどんどん出世できるよってところ。
それまでは、オギャーと生まれたら、仕事の種類も出世度合いも自動的に決まってた。

ちなみにこの600年の遣隋使は、日本側の恥歴史だったためか日本書紀では黙殺されてます。
ただ、黒歴史だったんで黙殺したのか、実はこの頃、男の天皇がいた事を日本書紀を書く側が隠したいための黙殺だったのか、今後の研究が待たれてます。

45: サボテン■忍法帖【Lv=11,せんし,MjD】◆SABO///jlE 2015/11/19(木)18:44:14 ID:tw@SABO_jlE
よっしゃ読ましてもらうやで
日本史大好きだけど、小学 中学 高校日本史Aしかやったことのない者ですが

47: 名無しさん@おーぷん 2015/11/21(土)15:50:32 ID:nlg
サボテンさん、いらっしゃいませ。
俄勉強の歴史素人ですので、お手柔らかにお願いします。


自分が日本史を勉強したかったのには、大きく2つ理由があります。
ひとつは、天皇とは何か、という疑問。
つまり、日本人として自分は何者かを考える時、日本史を知ることが必然となり、
日本史を知るためには天皇とは何かを明確にする必要がある。そう思ったためです。

もうひとつは、なぜ日本は負ける戦争をしてしまったのか、ということ。
良くも悪くも現在の日本を作ってるのは、敗戦後のごたごたが結構絡んでいて、
南京大虐殺問題とか、慰安婦問題、TPP問題のような、最近のホットな話題も
結局戦争のドタバタを無視しては語れない予感があるからなんです。

ただ、想定外だったのは、その問題を考えようとすると、結局明治以降の日本の歴史を知らなきゃいけないのと、
明治以降の日本の歴史というのは、世界の歴史の動向とかなり密接に絡み合ってるということ。
いわば世界の中の日本という視点ですね。

自分は学生時代、日本史はあまり得意じゃなかったけど、世界史は完璧に不得意でした。
日本史のエピソードはまだテレビドラマやクイズなどでよく見かけるけど、世界史の場合は殆ど関係ないし。
しかし、近代史の世界史を知らないと、近代史の日本史も分かり得ない、、、、、ということについ最近気が付き始めたところです。

なもんで、かなり亀の足状態の進歩になっちゃったんですが、でも、その中で見えてきたこともあります。
いずれそれについてもお話する事ができるかなと思いますが、随分先になりそうでもあります。



日本人とは何か、という疑問から日本史学習に手を染め始めたんですが、どうも、人間とは何か、という世界史学習にまで
将来間口が広がりそうでちょっと怖いなあと思い始めている今日このごろです。

でもまずは、日本史から、ですね。

50: サボテン■忍法帖【Lv=12,せんし,MjD】◆SABO///jlE 2015/11/21(土)17:59:33 ID:tw@SABO_jlE
>>47
せやな
でも俺とは日本史を学ぼうと思ったきっかけがちゃうみたいやわ
確かに一つのことが気になって、それから広がるように手を付けていくってのはなんとなくわかるで
興味持ってそれについて没頭するなんて自分もザラにあるしな
でもあなたがおっしゃるとおり日本史ってのは部分部分抜き出してやるもんとちゃうやろし、その点では割りと広範囲からやった方がええみたい
そいで流れを把握できれば儲けモンや。
俺が思うに日本史、若しくは世界史の必要最低条件は興味を持つことやで
それができてる人ってやっぱりすごいわ

48: 名無しさん@おーぷん 2015/11/21(土)16:06:11 ID:nlg
●飛鳥文化 仏教

飛鳥文化といえば、仏教文化。外来文化。百済を中心とした渡来人が運んできてくれた文化です。
建物で言うと、それまでの古墳が、仏教寺院になり変わっていったというところが面白いですね。

自分の勢いを魅せるものとして、古墳では大きさを示し合ってたりしたわけだけど、
中身のきらびやかさで勝負するようになっていったというのは、
作る労力の大変さの比較や、見栄えの良さなどを考えるとうなずける変化でもあります。

日本に仏教を伝えたのは百済が中心なんだけど、当時、百済より新羅のほうが勢いが良かった。
で、百済より新羅のほうが、仏教崇拝が強かった。そういう事情を汲んで、日本でも仏教を採択しようと考えたんだろうと思います。

それとあとは教義かな。
三経義疏というのがあって、法華経、維摩経、勝鬘経の3つのお経の注釈書がこの頃作られている。
仏教の思想哲学が、政治に活かせるといいなあと、血で血を洗うひつようのない政治になるなあと、
そういう考えもまた仏教採択の動機の一つだったんだろうとも思います。

仏教の教えというのは、「正しく考え、正しく発言して、正しく行動すれば、正しく生きられる」というようなもので、
それにきらびやかな修飾エピソードがてんこ盛りだったりする、いわば宗教だけど哲学のような、道徳のような
娯楽のような、小説のような、物語のような、とにかく興味をそそられるカルチャーショックそのものだったわけで、
形態だけの古墳文化よりは遥かに魅力があるものに当時映ったと思われます。。



●飛鳥文化2 塔と金堂の関係の変遷について

仏教文化といえば当然、お寺なんですが、その構成要素の「塔」と「金堂」の関係の変遷が結構興味深いです。

「塔」というのは、仏舎利。お釈迦様の骨のことです。ご本尊そのものみたいなもの。
「金堂」というのは、仏像。仏様を彫刻したもの。

で、当然ご本尊のほうが大事なんで、最初(飛鳥寺)は等を金堂が囲むように作られていた。
ところが、だんだんと、金堂の仏像のほうがストレートに拝観者の視野に入ってくるので次第に、
金堂のほうが大事にされるようになっていった。その変遷が結構興味深いです。



●飛鳥文化3 不思議な文化

百済経由で伝達された文化には、ペルシャとかあっちの方からのものも結構はいってて、
なんか意味不明なものも多くあるようです。たとえばゾロアスター教(拝火教)がからんでるんじゃないかなど。
シルクロード経由でギリシャ・ペルシャ・イラン系のノウハウも紛れ込んでいたようで、いろいろと興味深いです。

49: 名無しさん@おーぷん 2015/11/21(土)16:24:53 ID:nlg
●名前の不思議さ

気になる蘇我氏三代。の名前。
蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿。
これ、本当に当時本人が呼ばせていたとは到底思えない。マジ、これって悪口でしょ?

思うに、当時は言霊信仰ってのが強くって、コトバと名前の関係はかなりデリケートだった。
有名なところでは、もう少し時代があとになるけど、和気清麻呂が為政者に和気穢麻呂と改名させられた上に島流しになった記録がある。

同様に、蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿。これらも本当の名前とは違う悪口名前何じゃないかと思うわけです。
まず、馬子と入鹿。馬と鹿でが合わさると「馬鹿」でしょ。しかも蝦夷って、当時の成敗対象民族だし。

なので、おそらく日本書紀を書いた勢力(実態は藤原氏で、藤原不比等やその子孫)が歴史を改竄して固定化したんだろうと
思われます。

ちなみに、当時の東国の住人と蘇我氏は仲がよく、藤原氏になってから成敗対象になってるわけで
そういう関係も名前に織り込まれたんじゃないかと思います。


あと、興味深い話としては関裕二の一連の書籍によると
蘇我入鹿は聖徳太子で、蘇我氏が中央集権化に尽力していて、それをぶっ潰そうとクーデターを起こしたのが中大兄皇子と中臣鎌足。
ちなみに中臣鎌足は、百済滅亡時の最後の皇子豊璋だった、、、という話でした。荒唐無稽なようで、結構説得力がある面白い話でした。

ただ、もし仮に、関裕二の古代学が実はほんとうに正しい事実であって、彼の主張するようにいまの通説は歴史が改ざんされて
現在に伝えた日本書紀の悪意に寄るものだったとしても、この日本で受け入れられるかどうか疑問ちゃあ疑問なんです。

というのも、実は、中臣鎌足の子孫である藤原北家。その更に子孫の面々というのは、
現在に繋がる超一流の貴族や華族や大名などのもろもろの先祖になってるという家系的事実があるためです。
要するに、「日本書紀の内容には政治的な捏造が入ってる!」という主張は、「俺のご先祖様にケチを付ける気か!?」
と、現代日本のエクゼクティブの面々を敵に回すのと同等の意味を持つことになってしまう。。。。。

なにしろその人達にしてみれば、自分のご先祖様が実は日本を盗んだ帰化人だったなんてことになると
耐えられない屈辱なんで、いろんな圧力が「事実」を捻じ曲げる力として関裕二古代学に掛かっていくことが想定される。


そういうことも含めて、真実とは何かを探っていくというのも、趣味としての日本史であるならば、面白いものだろうと思っている今日このごろです。

51: サボテン■忍法帖【Lv=12,せんし,MjD】◆SABO///jlE 2015/11/21(土)18:04:04 ID:tw@SABO_jlE
やっぱり日本史ってのはなんとなく思想に近いもんやと俺は思ってる
この物事が昔にあったということを知っていれば今起こっていることに対していろいろ考えることができるしな
そこから自分なりの回答と言うか意見をだしゃーええねん
それをするためのもんが日本史なんやなぁって
実際知ってても使えなきゃ、どんな勇者の剣でも意味ないでな
世界史はそれを広げただけやないかなぁと

まあそれほど専門的なことは知らんから、日本史の知識については語れないけど、日本史という学問についてならいろいろ考えてることもある

52: サボテン■忍法帖【Lv=12,せんし,MjD】◆SABO///jlE 2015/11/21(土)18:06:54 ID:tw@SABO_jlE
>日本人とは何か、という疑問から日本史学習に手を染め始めたんですが、どうも、人間とは何か、という世界史学習にまで
 将来間口が広がりそうでちょっと怖いなあと思い始めている今日このごろです。

ええやん
すごいなぁと尊敬するやで

53: 名無しさん@おーぷん 2015/11/22(日)16:07:50 ID:FoG
今後ともご指導よろしくお願いします。

●大化の改新について説明省略の訳

さて本日は、天智天皇、天武天皇、持統天皇。
この辺りをぺろりんこと嘗めてみたいと思います。
全部はできないと思いますが、できるだけやってみますね。

と、その前に、

私が今回ここであまり大化の改新についてあまり触れないのには、理由があります。
それは、大化の改新の話がどうも嘘くさいから。

というのも、天智天皇のキャラクターを考えると、彼は只のならず者であり、
到底、中央集権のための大化の改新を推進しようなどという高邁な思想を持ちかつ実現したとは、到底思えないからです。

改新の詔は、後世の逆算による歴史改ざん、でっち上げ。
聖徳太子や馬この頃にある程度方向性として考えられていたものが
あったとは思うんだけどそれをパクって粉飾するくらいがせいぜいなもの。

ということで、省略です。
そのかわり、天智天皇のお人柄や実行した歴史上の足跡などについて詳しく振り返ってみたいと思います。

54: 名無しさん@おーぷん 2015/11/22(日)17:36:02 ID:FoG
●天智天皇1 お人柄の象徴である、名前の由来

天智天皇というのは諡であり、死後つけられた名前です。
で、諡にはなぜその名前がつけられたのかというそれ相応の理由があるんです。

たとえば「徳」がつく天皇。あるいは「祟」の名前がつく天皇。
これらは不遇な死に方をして怨霊になって後の人を苦しめると思われた天皇の霊を慰撫するための名前なんです。

天智天皇の場合、一見良さそうな諡なんですが、実はとんでもない話がある。
酒池肉林の語源となった殷の紂王というとんでもない悪玉の親分。こいつが天智玉を愛用してた。
いわば天智天皇ってのは殷の紂王なみのろくでなしだという意味が込められてる。
森鴎外が漢文で書いた解説書にあるそうです。

で、本当にそういうろくでなしだったのか、そうでなかったのか。
あしあとをみるとろくでなし以外の何物でもないようなんです。

乙巳の変の話、妹の話、弟の話、白村江の話、有間皇子の話、時計の話、孝徳天皇の話
いま、ざっと思いつくままにあげるだけでもこれだけの話があげられる。

ということで、今回はこれらについてちょっとお話することにします。

55: サボテン■忍法帖【Lv=12,せんし,MjD】◆SABO///jlE 2015/11/22(日)17:44:36 ID:tw@SABO_jlE
死後につけられるって天皇全てに言えることかと思ってた

56: 名無しさん@おーぷん 2015/11/22(日)17:55:57 ID:FoG
●天智天皇2 乙巳の変

乙巳の変。めちゃくちゃなクーデターです。

いまに例えて言うならば、総理大臣を天皇の息子が、だまして呼び出して天皇の目の前で討で殺害する。
これ以上のやりたい放題は考えられないくらいめちゃくちゃぶっ飛んでます。

さらには、このクーデター劇では、蘇我倉山田石川麻呂を味方に引きずり込んでいる。
コレの娘が自分の嫁さん。クーデター後の出世を餌に仲間に引きずり込んだってわけ。

にもかかわらず、その数年後には因縁をつけて謀殺してしまってる。
山田さんもマジ後悔しただろうね。

とにかく気に入らない奴はだまし討にかけてブチ殺す。
これが天智天皇(中大兄皇子)の生きる道~♪



●天智天皇3 妹の話

その中大兄皇子、なかなか天皇にならんのね。母親に天皇をさせといて、
クーデター後は叔父の孝徳天皇が代表の座についている。
その後、また母親が戻り咲きの天皇になってる。

なかなか中大兄皇子、天皇になろうとしない。

実はなろうとしないんじゃなくて、なりたくても天皇にさせてもらえなかったんだね。
というのも、、、、当時、いくら近親婚がはやっていたといっても、
実の妹と肉体関係になるのはさすがに許されないタブー。
これを奴は犯していた。なもんで、流石に周囲が天皇にさせなかった。
天皇になれたのは、その妹が死んだあと。

中大兄皇子、エロの方もやりたい放題だったわけだ。
ちなみにこの「実の妹」ってのは、孝徳天皇の奥さんです。

57: 名無しさん@おーぷん 2015/11/22(日)18:07:47 ID:FoG

●天智天皇4 孝徳天皇の話

その孝徳天皇だけど、かわいそうだった。

ある日、中大兄皇子と仲違いをして喧嘩した。中大兄皇子は当時大阪の難波に住んでいたんだけど、
孝徳天皇と喧嘩して難波に戻っちゃった。その際に、孝徳天皇の周囲に「俺と一緒に難波に行こうぜ」

・・・なんと、孝徳天皇の周辺のみんなが中大兄皇子についていっちゃった。
孝徳天皇の奥さんもついていっちゃった。そりゃあついていくよね。不倫相手だもん。

孝徳天皇は、失望と落胆のうちに、その数年後に死去。

まじ、中大兄皇子、やりたい放題。

(この辺りの出典は、竹内睦泰著の、「超速日本史の流れ」(KK)ロングセラーズに
詳しく記載されているので興味のある人は買って読んでみてください)


●天智天皇5 有間皇子の話

孝徳天皇あとは、斉明天皇。実はこの斉明天皇は、皇極天皇の重祚だった。
孝徳天皇には有間皇子という子供がいたので、本来ならその子が天皇につくはずなのに、
中大兄皇子の母親が再び天皇に返り咲いたってわけ。

さて、その有間皇子の話。

ある日、斉明天皇と中大兄皇子が、温泉旅行にでかけた。
留守を預かる有間皇子。とそこに、蘇我赤絵がやってきていうことには

「有間さん、お気の毒にねえ。本当ならあなたが天皇になる順番だったのに。。。。
あの斉明天皇ってやつはひどいですね。天皇の座を横取りしやがってて。
私はあなたがお気の毒でお気の毒で、、、、

斉明天皇の重祚は、中大兄皇子かわいさにあなたが座るべきだった天皇の椅子を横取りしちゃったったんですよ。
どうですか、ああいうとんでもない悪いやつらをやっつけませんか?私がお手伝いしますから、私の兵を使っていただいて、
奴らをやっつけに行きましょう。ね?ね?そうしましょ?」

有間皇子、自分に同情してくれて、兵も貸してくれるということなんで、その話に乗った。
ところが、蘇我赤絵に誘導されてついていったのはいいけど様子が違う。

蘇我赤兄「やはり謀反の心づもりがありました。そのため、ひっ捕らえてきました」
中大兄皇子「本当か?」
有間皇子「蘇我赤兄が勝手にやったことです」
中大兄皇子「絞首刑に処す」

ということで、有間皇子は翌日殺された。。。。。

58: 名無しさん@おーぷん 2015/11/22(日)18:28:46 ID:FoG
※有間皇子の話は、山川出版社の学習ノートのコラムに書いてました。


●天智天皇6 白村江の話(ちょっと俯瞰した話)

聖徳太子が仏教を政治の世界に持ち込んだのは(というか正確にはすでに持ち込まれていた仏教を政治に大いに利用しようとしたのは)、
ひとつには、既述の内部を固めるための道具としてなんだけど、もうひとつには、百済と新羅を比較したため。
当時、百済より新羅のほうが勢いが出てきた。その理由はもしかすると仏教かも。総聖徳太子が思った可能性があるってこと。

当時の朝庭は、百済が半島や大陸の文化の窓口になってたんだけど、新羅もいいなあって、思ってもおかしくないわけ。
だけど、百済グループの勢力はそれじゃあ困る。ということで乙巳の変の動機要因の一つになっていた可能性がある。

さて、中大兄皇子と中臣鎌足は二人三脚なんだけどどっちも百済親和グループ。
関裕二によると中臣鎌足の正体は百済皇子の豊璋だという話。仮説でしか無いんだけど、仮にそれが正しいとなると
非常にスムーズに当時の事件の流れに説明がつけやすくなる。(らしいw)

中大兄皇子が中臣鎌足にそそのかされて操られていた可能性はありますね。


で、660年。百済滅亡。
その敵討ち(?)に白村江出兵したはいいけどボロ負け。
勝ったのは唐と新羅の連合軍。

彼らが勝った勢いに乗じて日本に成敗にやってくれば大変なことになる。
ビビった、中大兄皇子は以後、まもりを固めてガクブル状態。

ところが運の良いことに、半島ではその連合軍は高句麗に向かう。
高句麗を滅ぼしたあとは、新羅が唐を追い出して半島統一。

こういう流れになったんで、日本は安泰だった。
唐と新羅の連合軍が高句麗ではなく日本を狙っていたら、
あるいは新羅が唐を追い出さずに連合軍のママ日本に攻めてきていたら。
もしかするといまの日本は中國の一部になっていたかもしれません。
運が良かっただけですね。

というのも、新羅は唐を追い出したんで、日本と戦いたくない状況になった。
唐と日本が新羅を挟み撃ちにすると新羅は困るから。

で、そんな関係で、新羅は日本のご機嫌取りをしたんだけど、それをいいことに日本は新羅に対して上から目線。
新羅にしてみれば便宜上のご機嫌取りにすぎないので何だこのやろう感覚。

朝鮮と日本の不仲の種はこの辺りに起因するかもしれないです。(しないかもしれないですw)

59: 名無しさん@おーぷん 2015/11/22(日)18:39:03 ID:FoG

●天智天皇7 時計の話

この天智天皇、好き勝手やるだけじゃなく、所有欲も貪欲。
当時私地私民の豪族の土地と人員に対して、戸籍を調べたり、現物税をかけたりと好き放題を画策。
更には水時計まで作ってしまう。

水が一定の速度で流れ落ちることにより、時を刻むという時計のメカニズムで、15分単位で時を知らせることができたんだとか。

つまり、人、土地、時間、これらすべてを自分のモノとして把握所有しようとしてやがるのかよ、と同時代人はげんなりしつつ反感も持ちつつ、
でも反旗を翻すと殺されるんで死んだふり。という状況だったようです。



●天智天皇8 弟の話

さて、有間皇子を騙してその本心を推し量り、危ない奴は殺しちゃう天智天皇。
弟の大海人皇子(後の天武天皇)を呼び出して、
「自分は病気でまもなく死ぬので自分の次に天皇になってくれ」
ッて言うわけです。

大海人皇子は、「めっそうもございません。私は直ぐに頭を剃って坊さんになります。あなたの冥福を祈ります。
政権に興味はございません」と、すたこらさっさと逃げ出した。で、命拾い。

弟にはわかってたんだな。兄の恐ろしさが。

ちなみにいま、「弟」って言ったけど、もしかすると大海人皇子のほうが年上かもしれない。
ただ、母親の出自が高くないために弟扱いになっている可能性がある。

不思議な事に、天武天皇のために日本書紀が作られたみたいな話になってるくせに、
主人公のはずの天武天皇の正しい生まれ年がわかってない。
(実は藤原不比等一族のための捏造日本史流布のためというオチ)



●天智天皇9 最期の姿

で、この天智天皇、関裕二氏によると、扶桑略記には、
馬で外出中ある日突然靴を片方残したまま姿を隠した、ってのが天智天皇の最期の話になっている。
コレを信じるなら、拉致されて殺された可能性が強い。

人間関係で好き放題をやり、外交も勝手気ままをやり、内政もでたらめをやって、それがまかりとおってたわけなんだから
敵も多かったろうなと納得はできる話。

60: 名無しさん@おーぷん 2015/11/22(日)18:49:51 ID:FoG
●壬申の乱とその後

天智天皇が死んだあと、死んだと言っても当時の認識が失踪だとすると、もしかすると弘文天皇は即位していなくて皇太子のまま政治をしていたのかもしれない。
実質天皇だったろうことは間違いないけど。

さて、着の身着のまま難を逃れた大海人皇子。
天智天皇がでたらめだったために、特に海外に兵を出してクニを疲弊させてしまったために恨み骨髄。都の外は反感の塊が渦巻いていた。
これらの力を集結させて、弘文天皇に対してクーデターを仕掛ける。これが壬申の乱。

一説には、天武天皇は蘇我氏系列だという話もある。
とすると、この時代は、蘇我氏と藤原氏の主導権争いの時代と見ていいのかもしれない。

都の中は、伝統ある豪族たちが占めていた。
そして彼らは当然、正統な跡継ぎである弘文天皇側につく。

しかし都の外の連中は、天智天皇の政治に超不満。
そしてその数のほうが多い。多くて強い。

実際には、東軍をまとめたのが大海人皇子。
西軍をまとめざるを得なくなったのが弘文天皇。
しかし、西軍は白村江の戦いなどで天智天皇系に恨みを持っていた人達が多かったんで力が集まらなかった。

その結果、弘文天皇側の敗北。
当然、弘文天皇に味方していた人たち、すなわち伝統的な豪族たちも合わせて没落。

その結果、天武天皇は皇親政治を行うことができるようになった。

ちなみに、唐の国で「天皇」を統治者の頂点として使われたのが天武2年。
天武天皇が自分のことを天皇と言った記録の最初が天武6年。

なので、日本に大君ではなく天皇として天皇が誕生したのは、この天武2年~天武6年の間のいずれかの時であり、
かつ、それを最初に使ったのは日本では天武天皇。

(いままでも天皇天皇と表記してたけど、めんどくさいからそう表記してきただけで、本当は天皇ではなく大君だったんですね。失礼しました)

61: 名無しさん@おーぷん 2015/11/26(木)02:57:32 ID:8wG
あれ?
終わっちゃった?
僕もスレ主さんと同じ経験から新しい日本史に興味持ってたのにな。
どんどん楽しくなってきて
次を楽しみにしてたのに。残念

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